2011年09月06日

25年ぶりにニュージーランドへ行ってきます





9月10日のラグビーワールドカップ、日本対フランス戦の応援に行く。

最後にNZに行ったのは、メルボルンで永住権を模索していた時。一旦、海外に出ないとならないので、オークランドに1週間行った。これが、3度目のNZだった。

その頃はアジア人は少なかったが、今は留学生でごった返しているらしい。当時は、食文化が貧しくて閉口したもんだが、今は様変わりのようだ。期待度が大きい。

帰りの飛行機は9・11、あれから10年の記念日だ。無事に帰って来られるよう願っている。  

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2011年09月04日

ジュディーと過ごした群馬県赤城山






「大沼に行って、ボートに乗らない?」ジュディーを誘った。群馬県赤城山のキャンプ場での裏方ボランティアの仕事が終わった。翌日は山を降りることになっている。 1973年8月の1カ月間、当時メンバーだったプロテスタント教会が持っていたキャンプ場で働いていた。冬はスキー、スケートができるほど寒い所だが、夏は避暑地として快い気候の素敵なキャンプ場だった。
 東京の教会のオルガニストをしていたのが、近くのアメリカンスクールで看護婦をしていたジュディーだった。その性格からまるで天使のような人、と言われていた優しくて魅力的な人だった。でも、私にとっては雲の上のまたその上の人だった。アイルランド系アメリカ人、反共主義者でニクソン大統領支持者、私より4歳年上の25歳だった。一緒に働いていても、一緒に山登りしても、キャンプ場の屋根に布団干しをしていても、少し話すだけで胸が痛くなるだけで全く先がない。
「来年、アメリカに来ない?」大沼でボートに乗りながらジュディーがいった。飛行機は豊島園のヒコーキ止まりだったし、東村山の家のローンに苦しんでいる両親のことを思うと、経済的にも絶対にできそうにない話だった。ジュディーはこのキャンプのすぐ後、2年間の日本の滞在を終えてアメリカに帰ることになっていた。「神様のみこころだったら、きっと実現するわ。シカゴで会えることを楽しみにしてるわ。絶対にアメリカで逢いたいわ。」
 キャンプ場に帰ると、翌日私と一緒に帰る山本先輩が、360ccのスズキの緑色の車を点検したいた。そのカーラジオからスティービー・ワンダーの「You are the sunshine of my life」がタイミング良く流れていた。
♪ You are the sunshine of my life
That's why I'll always be around
You are the apple of my eye
Forever you'll stay in my heart  ♪
 その年の11月末、教会会員のピーターソンさんに呼ばれた。「タコ、来年の6月に家族で3カ月アメリカに里帰りすることになったよ。できたらタコも一緒に来ないかい。飛行機代は来月初めまでに払えば往復11万7千円でいいんだ。そして3カ月の滞在費は5万円でいい。私たちが面倒をみるから。是非、一緒に行こうよ。」オイルショックの年のこと、これはどんなにしてもないくらいの破格の金額だった。こうして、生まれて初めての海外旅行が翌年の1974年6月4日にスタートすることになった。ロサンゼルスに1泊した後すぐにシカゴに行くことを知った。

こんな伏線があって、すったもんだしてオーストラリアに辿りついた。


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2011年09月01日

ニッポンの妻たち




初めてのゴルフは、山梨県の山間コース、アップダウンが激しくてとんでもないコースでの筆下しとなった。いまでは、ノミの体に象の心臓で、心臓が歩いてるなんて言われて久しいが、あの頃は逆だった。この日、緊張がゴルフシューズを履いて手袋しているような感じだった。そして、自慢じゃないが1日に18個の ボールを無くした新記録を打ち立てた。ゴルフを知らない方は分からないだろうが、これは世界に誇れる金字塔。下手で後ろがつかえるので、探す時間が十分に 与えられなかったということを考慮してもすごい。

「タコ君、商品を全部家に忘れてしまったよ。」何年かしたあるコンペで同僚の細川さんが 真っ赤な顔でそういった。細川さんはその時の幹事で、あわてて奥さんに電話して持ってきてもらうことになったとのこと。片道、車で3時間。奥さんは商品を持って届けてくれた。日本の奥さんは素晴らしいと感心した。それと同時に、ゴルフも仕事の内と嫌というほど知らされた。

何年か前に、この細川さんとお会いすることがあった。私は、オーストラリアから一時帰国していた。
「タコ君、いろいろあってね、別れちゃったよ。」あの奥さんと離婚されていたのだ。あの時、素敵な笑顔を絶やさず商品を持って来られた奥さんの顔が過ぎった。

「日本がこれだけ発展成長している本当の理由をご存じかな?」
80年代の初め、年頭の挨拶でY専務が話始めた。私がサラリーマンとして9年間勤めていた会社の専務だった方だ。これからバブル経済にのめり込んでいく前だったが、その勢いはもう始まっていた頃の話だ。

「それはね、日本の妻たちなんですよ。夫を理解して、夫を支えやっている妻たちの力なんですよ。」
はー、うまいことを言うもんだな、と思った。私は独身だったので夜中まで飲んで帰っても、文句をいうのは近所の犬くらいでよかったが、妻帯者の方々も残業の後一緒に飲んだくれていた。こういうことを陰で支えているのが、「ニッポンの妻たち」なんだと思ったもんだ。

しかし、この細川さんの一件があってから、「ニッポンの妻たち」も実はギリギリのところでやっているんだなと思わされた。当然といえば当然だろうが。

細川さん、今は25歳も年下の中国人の方と 結婚され中国に住んでいて幸せにやっておられる。還暦を過ぎているが、小学校に上がる子供さんがいるという。今は、「中国の妻たち」とかの範疇に入られているのだろうか。いずれにしても、仕事をしていくうえでの、妻、夫、彼女、不倫相手などのサポートと理解は不可欠。

中国ではゴルフ人口が増えているという。細川さん、今もゴルフをされているのだろうか。

  

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2011年08月29日

渡豪するまえに、恩師に言われた一言


会社の窓から、夢をおいつつ



オーストラリアで日本語教師になる夢をもって、1985年6月にシドニー入りした。その後、メルボルンに魅せられ住みついてしまった。

渡豪する前に、日本語教師養成学校の長島校長先生に言われた。
「学校経営を是非してください。しかし、まず一人で始めること。複数で始めると意見が分かれ経営のベクトルが混乱します。一人で始めて基盤を築いてから人を雇うようにしてください。」

先生の言われるように、Melbourne Japanese Language Center を1987年に一人で立ち上げた。最終的に9年後に閉じるまで、結局一人だったが、、、、。

1996年、MTSC留学センターも自宅から一人で始めた。現実には、大きく始める資金力がなかったことも大きいが。「伝言ネット」というメルボルンのフリーペーパーも同時にスタートして、合わせて20人近くのスタッフの協力を得ることができた。今は、日本の景気の影響で縮小しているが、方法は間違っていなかった。

起業は、スタートするのは容易い。でも継続が問題だ。本来、易きに流れがちな自分がここまでやって来られたのは、素敵なスタッフの力に拠ることが大である。

小さくスタートして、志を一つにする人に恵まれる。これが大事なことのように思う。
  

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2011年05月02日

まだ生きています





もう忘れられたタコ社長、なんていわれそう。

実は、ちと訳ありで3月1日から日本。東京で、「震度5強」を経験。政府が嘘を言いまくる内に3月15日あたり被曝してしまった。(真実が、後から後から洪水状態。安全ですと言い続けていた、また言い続けている政府は日本国民のためにはない!万死に値する!)

そして、余震、余震の毎日。家庭の事情もあって4月24日までニッポン滞在。

人の命、明日は知れず だから今日を思い切って生きるべし
こんなことを毎日思いながらやっていた。

あることを成そうとしたとき、準備を100%してからやろう、とか思っていたら絶対に成せない。人生は、見切り発車、これが私の信条。そして、リスクが見え過ぎる慎重人間にはやっぱり会社なんか興せない。ある意味で、ノーテンキなところがないと、会社なんて怖くてやれたもんじゃない。だから、エリート中のエリートとかじゃなく、どっか抜けたところのある奴が会社経営には向いてるかも。でも、タコ社長のように、抜けっぱなしじゃ経営は覚束ないが。

この二カ月、日本で皮膚感覚でいろいろ学ばされた。口を空けてりゃヨウ素味、物を拾えばセシュームが付いてくる。そんなリスクだらけのニッポンに誰がした!

でも、どこにいても私たちは日本人と運命を共にする運命共同体。オーストラリアから日本に少しでも元気を送りたい。友達は今、福島で20キロ圏内の動物を保護するボランティアに行っている。なかなかできないことだ。

今日の日記は支離滅裂になってしまった。取り敢えず、帰国の一報、まだ生きています!
  

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2011年02月13日

金髪ビキニの女性と出会って英語力不足を痛感していた頃





「ワラー?」、少なくとも私にはそう聞こえた。反射的に「イエス」と言った。東京は練馬の自宅から自転車で30分くらいの所にあった米軍の住宅地、「グラントハイツ」での出来事だった。私は小学校4年の頃から、世の中に見た目も違うし言葉も通じない人々がいる、そんな世界に強烈に惹かれた。本当は、勝手に入ってはいけないこの「外国」に、自転車を乗り回しずっと奥まで入り込んでいた。甘ったるい空気の匂いに誘われて、どこまでも自転車をこいでいたくなる。
 真夏の暑さで疲れも感じ、芝生に大きく聳えている木の下で休むことにした。少しすると、どこからともなくピンク色の派手なビキニの中年金髪女性が近づいてきて私に声をかけてきたのだ。既に、その頃から物欲しそうな顔作りになっていたのだろうか。何もかもが大きいこの女性は、体を揺らせながら家に入りものすごく大きなコップに水を入れて持ってきてくれた。「水」のことを、「ワラー」というんだ、とヘレンケラー的体験をさせてもらった瞬間になった。
 その生暖かい水を無理をして飲み干した。その間、ビキニの女性は体が触れるほどの距離のところでじっと立って待っていて、見上げないとならないので目のやり場がなかったが、「サンキュー」といって頭を下げてコップを返した。彼女が、スケールの大きな後ろ姿を見せながら遠ざかると、私は急いで自転車に乗ってその場を立ち去った。なんだか知らないが急に怖くなった。
 この時、「ワラー」以外にももっと沢山英語を覚えたいと思った。話ができたら、じゃお返しに肩のひとつでも揉んであげようとかはないだろうが、生まれ故郷の話とかで盛り上がったりして面白いんじゃないかと思った。
 英語教師が皆、金髪でビキニである必要はないが、異文化に触れるときの刺激が強ければ強いほど、語学学習ではいい結果が生まれるのかもしれない。学習意欲を湧かせるのは、なんといっても好奇心だろう。
  

Posted by タコ社長 at 19:38Comments(2)

2011年01月25日

ストリップ小屋で学んだ営業心得





東京は池袋の西口の、落語で有名な池袋演芸場をもう少し行くと何とも妖しげな店が立ち並ぶ路地がある。大人になりかけのある青年が、好奇心に燃え尽きそうになりながらそこに立っていたとしよう。そこで、「1000円」という文字のある看板にしっかり惹き付けられ、ストリップ小屋に入ってしまったとしてみる。

出てきた中年女性は、ほんの5分くらいクルクルしたりして厚手の上着を脱いだだけで、「はい、これ以上は別料金よ。どうする?」とくる。全く、何も見せてはいない。想像にしても、私はこういうことがどうも嫌いで苦手だ。看板に偽りあり。どうしてこれを称してストリップなのだ。辞書の説明と違う。子供の頃、千葉辺りの潮干狩りに来ていたシュミーズのオバサン達の方が、よっぽど色っぽかった、なんて思ったりする。

「お兄ちゃんね、こういう所に来るときにはもっとお金持って来なね。」女性が服をつけながらそんなことを言ったりする。なかなか入れないで店の前を行ったり来たりして、勇気を奮ってやっとの思いで入った所、なんていう設定である筈だ。あまりにむごい。

青森辺りから集団就職で出てきた無垢な青年なんて設定ではないが、まだ人を疑わない気持ちの方が強いころのことで、これはないだろうと憤ってしまう。こういうのが大人の裏の世界というのなら、これから一生185センチ82キロの子供でいたい、などと思ってもしまう。たとえば、この青年の父親が警察官だったりしたら、官憲に言いつけてやりたい衝動にも駆られたりするかも知れない。

「お兄ちゃんね、出るときにちゃんと見てね。看板に『1000円から』って書いてあるからね。私に文句言ってもダメよ。」もう、そういう親切心も通じない。あれだけエネルギーを使って入ってきて、このザマはなんだ。相手に不戦勝の至福を大いに与えてただ帰るなんて。そういう憤りが襲ってくるに違いない。仕方なく出るときにその看板とやらを確認すると、老眼になったら絶対に書いていないと言い張って再び中に戻れるくらい小さな字で、「から」が書かれていたりする。人間は、こういう経験を積みながら、だんだんと大人になっていくのだろうか。

とはいえ、この方々も仕事、商売である。ギリギリのところでルールを守りつつ、高い利益率をキープしながらしっかりと利益を上げる。フーテンの寅さんも言っている。「見上げたもんだよ 屋根家のフンドシ。田へしたもんだよ カエルのションベン」そう叫びたくなってしまうような経験になるのではないだろうか。

恐らく、こういう経験をした小屋にはもう二度と行かないことだろう。そういう意味では、こういう店はリピーターを作れない訳で、商売としての本当のウマミを完全に逃している。
もし、私がこの小屋のタコオヤジだったら、こういうウブなお客さんにはもう少しだけ見せて恩を着せ、リピーターにならせるように社員教育を徹底するだろう。こんな話で威張ってみても始まらないが、架空の一期一会の話からも学ぶことはあるもんだと感心してしまう。いろんな一期一会があるもんだ。
  

Posted by タコ社長 at 14:32Comments(2)

2011年01月13日

永住権を申請して日本で待っているときに母から言われた一言






朝のワイドショーをよく母と一緒に見た。33歳でオーストラリアに永住権を求めて来て、その永住権を申請日本に帰って結果を待っている半年間の間のことだった。宮尾すすむさんの「ああ日本の社長」は二人の好きな番組でもあった。ビックカメラの社長の話など、今も覚えている。

「大学まで出て、そこそこの会社に入って、辞めてお母さんと朝からテレビ見てるって、どっかおかしいと思わないかね。」可なり応えた母の一言だった。

この社長シリーズでは、若いころに可也苦労して社長になった方々の話が多かったように思う。宮尾さんの語り可笑しくて二人で笑い転げながらも、私は、心から笑うことはできないでいた。

「悔しかったら、お前もああなってお母さんを安心させてよ。」

オーストラリアに来て、まずカフェで皿洗いをした。そして、日本食レストランでも皿洗いをした。テレビで見た、皿洗いから始めて社長になった人たちのことを思い出した。しかし、皿洗いをしていて皆が社長になれるなら、世の中社長だらけになる。

日本食レストランでは粉にまみれて天ぷらも揚げていたが、どうにもカラッと揚がらない。180度の温度調節が難しい。ベテランのシェフに、目の前で私が揚げたてんぷらを捨てられたこともあった。慣れない包丁で指を切った。料理なんかほとんどしたことがなかった私が日本食レストランで働いている。しかし、なんとか永住権を取得して1987年3月に再びオーストラリア入りした。

永住してから、すぐ結婚して数年で別れた。その別れた妻の母親に、「あんた、日本に帰った方がいいよ。」と静かに言い切られ顔がずっと上げられなかった。脛は傷だらけで、人の脛も借りないとならない。しかし、日本に帰るわけには絶対にいかなかった。

私は、基本的には飽きっぽい人間で、ほとんどのものには飽きてしまうのだが、その中でしつこく追い求めてきたものがいくつかあって、それらに関しては絶対に諦めないで今に至っている。
  

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2010年12月16日

どこまでも続く日本人的な気質とは

80半ばの両親の介護などで長期日本帰国しており御無沙汰してしまった。また、タコの日記をまとめてみたい。

「タコ社長は、ハエ取り紙みたいな人ですね」。
以前、ある方にそう言われて、そういえば前に口を開けていてハエを飲み込んでしまって、その一日がヤケに爽快だったな、なんて思ったりして妙に納得。この方は、どんどんと人が寄ってくる、と言いたかったのであろうし、それは善意の発言ではあったのだろう。しかし、欲を言わせてもらえば、もう少しサッパリとした表現をしていただけなかったのかとも思うし、ハエにたとえられては皆さんも映えない。でも、褒めてもらっているようなので文句は言えないが。

先日お会いした取引先の方、ちょっと今までとイメージが違う。よくよく見てみると、なんだか引き込まれそうな危ない目をしている。
「タコさんね、青いコンタクトレンズを入れているんですよ。面白いですよ、日本人は必ず何か言うけど、オーストラリア人は何も言わないのよね」。
実は、3%くらいオージーの私もコメントを避けてはいた。容姿や年齢に対する発言を極力避けるオージーの気質と、ほぼ100%コメントしたがる日本人の気質の違いだろうか、などと比較してみると納得できそうな気もしてくる。

日本人の中には、私と会って顔が広いというよりデカイ、とコメントする人が知っているだけでも2人はいる。ゴキブリは1匹いると、その100倍はどこかに隠れているといわれるが、そうしてみると、この手の隠れコメンテーターはわんさかいることになる。ハエとかゴキブリとか、あまり感心しない形容はこの際おおめに見ていただくことにしよう。

ちなみに、ゴキブリといえば、前に会社を訪れた方が、「クイーンズランドにはゴキブリがいるでしょう」とあたかもそれが嫌でクイーンズランドに行きたくない、と言っておられたのを思い出す。前にそこに住んでいたスタッフも、ブンブンと遠慮なく飛んでくると言っていた。どうも、ホイホイとはいかないようで、メルボルンにいる理由がこれで一つ増えた。メルボルンのゴキブリは、行動がやや地味なような気がする。

「マレーシアに行ったら、会う人会う人全員に、歳はいくつか、結婚しているのか聞かれまくったわ」。これはマレーシアから帰った日本女性の弁。人の容姿や年齢に、日本以上にコメントしたがる民族がいるようだ。これは、これで文化人類学的にみてなんらかの理由があるのだろう。いずれにしても、オーストラリア人に対しては、身体、年齢に関わるようなコメントは避けた方が無難であるようだ。ただし、綺麗だとか若く見えるとか、そういった喜ばれる発言は、歯が大いに浮くほど言ってもいいようではあるが。

「代表、どうしたんですか、ドジンみたいじゃないですか」。
私のデジカメ写りを評価してあるスタッフがバカデカイ声で禁止用語を使って言う。飲み屋の酒の席ということもあるのだろうが、ハドメがきかない。「酒ヤケです」。赤ワインがこうじて脱色が効かない私はこう答えるしかない。

こうしてタコ社長、メルボルンにいながらますます日本人度が高まってきていて、いつか日本に永住したい、などと血迷った発言を繰り返している。

  

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2010年10月19日

永住権を求めて



明治時代にアメリカに渡った野口英世は、15年間日本に帰らなかったという。その15年目に帰って母親と水入らずの日々を過ごし、アメリカに戻る。それから、50歳にしてアフリカに渡りそこで客死。最後に日本で正月を過ごしたのは10年前、とかいって同情を誘っているようなタコ社長とは覚悟の格が違う。「永住」という重みがちっともわかっていない私だ。そんな私だが、「なにがなんでも永住権」と言って33歳でオーストラリア入りした。梅毒の研究はしなかったが、梅毒の心配はした。そこだけが野口とのわずかな接点。

「永住したいんです」。短期ビザで滞在していたある日、こちらの大学で日本語を教えているSさんを紹介され、彼の大学を訪問したことがあった。「永住ね。一番手っ取り早いのは日本食レストランのシェフになることかな」。当時私は、「真面目です」を額縁に入れて歩いて、三遍まわってワンと言っているような人間だった。そんな真剣な私の問いに、Sさんは肩透しを食らわせた。「なんだこの人は、くだらん人だ」と思ってしまった。日本のサラリーマンを辞めてそんなに日も経っていない私は、変なプライドをぶら下げていたのだろうか。今思うと私の方がずっとくだらない人間だったような気がする。

「日本語を教えることは、本当に日豪関係に役立っていますね」。日本語教師を目指していた私は、絵に描いたような質問をした。「私は、そんなつもりでは全然やってないんです。日豪間の架け橋になろうなんて気持ちはさらさらありません。ただ好きだからやっているんです」。この人、言うことがいちいち腹立たしい。タコ社長、物事を真直ぐにしか見られない不器用者。しかし、反発しながらもこのSさんの言葉が、そのあと何度となく蘇ってきて今に至っている。

Sさんのアドバイス通り、こちらの日本食レストランで働くことになった。来る日も来る日も皿を洗っていた手の皮がべロッと剥けた。くだらんプライドなど、両親の顔が浮かんで目が滲むこともあった。手紙を書くと早速、日本の母がニベヤのクリームを山ほど送ってよこした。永住権は絶対に取れる、と裏打ちもなく唯阿呆のように自分に唱えながら毎日皿を洗い続けていた。でも、不思議と明るくやっていた。明日のリスクが見えない性格は、いいこともある。そして、すったもんだのあげくやっと永住権が取得できた。

という訳で、今でも皿洗いに関しては誰にも負けない自信がある。


  

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2010年10月13日

一糸まとわぬマリリン・モンローを、、、、、






海外営業部に所属していたサラリーマン時代、担当はインドとパプアニューギニアだった。どうして、アメリカと、美人の多いことで知られているポーランドとかじゃいのだろう、と文句の一つもいいたいところだったが、仕事も覚束ない新米社員の頃で口答えできない。もっとも自分の行きたい所には行かせないのが会社。因みに、元相撲取りのような体格で決められた、と噂さもされていた。

仕事はそこそこ面白かったのだが、あるときインドの大プロジェクトで直属の部長と課長の板ばさみになり、課長が死ぬの生きるのといっているような状態のなか、仕事に冷めていってしまった。「脱サラして、オーストラリアで日本語教師になろう。」と自分で自分に辞表を出し、ついでに辞令も出した。これからは自分の人生の進路は自分で決めようと格好よく言ったりしていたが、実のところは会社の組織から脱落した負け犬の遠吠えだったのだろう。やり直し人生をオーストラリアに賭けた。

まず、体の悪い所を直そうと考えた。命には別状ないがあっても邪魔なものは、前も後ろもきれいにさようならした。脱サラして規則的な生活をし出したら、体重が10キロ減った。飲んでから最後にラーメン、餃子なんかが定番だったサラリーマン時代。それが終わっただけで痩せた。これには驚いた。

それにしても、ビザがないと観光には行けても住めない。日本語教師だけでは弱い。何か、日本人ならではの技術を、俄か作りで習得しようとした。「そうだ、指圧をやってみよう。」熱しやすいことは天下一品、特に異性に関しては、池の鯉にでも恋してしまう性格。決めたら即実行。

子どものとき、シャネルの5番だけのマリリン・モンローを隈なく指圧しまくったという伝説の指圧師がいた。彼女は、私の金髪憧れの元祖原点の方だ。因みに、秋田生まれの母とモンローは同じ年、彼女が生きていれば今年84歳か。母の場合は、シャネルとかじゃなく桃の花とかもっと身近なものだったような気がするが。この伝説の指圧師、浪越徳治郎さんが立川の朝日カルチャーセンターで家庭指圧教室をやられていたので、失業保険を取りに行くついでに資料をもらい即断で入会した。

こうして、いろいろ準備して1985年6月にオーストラリア入りした。贅肉も無くなったが金も無く、あるのはどデカイ夢だけの33歳。結局、永住権は指圧でも日本語でも取れず、すったもんだのあげく、日本食レストランのマネージャーとして奇跡的に取得できた。

ところで、移住して間もない頃、指圧をやろうかと新聞に広告を出したことがある。「ジャパニーズ指圧」として出した。何と、その日だけで93件の問い合わせがあった。しかも、全員男。その日の終わりには電話を取るのも嫌になった。同じ金髪でも、プロレスラーのような白人男への指圧は大変だ。どうやら、日本人女性がやるちょっといかがわしいマッサージを期待して多くの人が連絡してきたようだった。そんな期待をされた方々には申し訳なかったが、結局指圧は諦めた。師匠の浪越さんにあやかることができずに、自分にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
  

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2010年10月05日

金髪ニッキーにシドニーのバーで出会った頃







シドニーの新宿歌舞伎町、キングスクロスが私のオーストラリアでの生活の出発点だった。日本から、わけも分からず予約をいれた簡易ホテルに1ヶ月ほど投宿した。1985年の6月のことだった。

ヨーロッパのカフェ文化が少しずつ浸透してきていた。宿から歩いて1分くらいのところにBourbon & Beefsteak Barというステーキレストランとバーが一緒になったよう店があった。24時間営業だ。バーの奥にはピアノの弾き語りなんかがあって、割と落ち着いたムー ドを出していた。週末にはすごい賑わいだったがウィークデーはゆったりと飲めた。好奇心も手伝って、毎晩一杯ひっかけに行っていた。六本木交差点の近くにあったバーニーインに似た雰囲気があった。因みに、この六本木の店には時々行っていたが、白人男性と友達になりたい日本人女性から、しかとされることが多々あってマゾっけが磨かれた。



黒人のピアニストがビリー・ジョーの「ピアノマン」を奏でている。
「どっからきたの?」金髪を素直に伸ばした、年のころでいうと30代後半の地味な女性が話しかけてきた。こういうことは、日本ではまったくなかったことだ。

「東京から。」私は、日本とは言わずいつも「東京」ということにしていた。秋田、とかだったらそうもいかないが、「東京」を知らない外人はいないだろうと思っていた。

「私はカルフォルニアから来ているの。ニッキー、よろしくね。」
そうか、彼女も外国人だったのだ。境遇は同じだ。人恋しかったのだろう。

このバーは、おつまみが無料で出た。貧乏旅行で家計簿をつけ始めていたのでありがたい無料サービス。しかし、大体は鶏の手羽で、味は濃くそしていつもといっていいほど肉がついていない貧弱なものだった。レストランでは出せないものが回ってきているようだった。

「この手羽、食べられないわね。」
ニッキーと名乗った彼女はエクボを作って苦笑いした。
「僕は、タコ。一ヶ月、このキングスクロスに住むことにしてるんだ。」
「変わった名前ね。」
中学3年程度の簡単な英会話で十分通じる。ハイボールをチビチビとなめながら、音楽に聴き入った。

ほんのちょっと前までは、東京は東村山にいて、押入れから冬物を出して渡豪の準備をしていた。今は、観光ビザで将来のあてもなく、シドニーのバーでアメリカ人の女性と話している。不思議な気持ちが渇いたピアノの音にくるまれて生温かく漂う。この開放感がたまらなかった。先の見えない将来への不安がなかったといえば嘘になる。それと裏腹に、これからの人生なんでも可能なんだ、みたいな変な自信もあった。不安と自信が、ハイボールの中でぐるぐる回って酔いが早い。

ニッキーとは、このバーでそれから2,3回出会った。いつも、同じ席に座って、時々ピアニストの黒人にニコッとしたりする他は、ほとんど動かない。金髪の派手な輝きだけが浮いている。

一度だけ、ニッキーとハシゴをしたことがあった。モスマンという所にあった「ピクルドポッサム」という、やはり弾き語りのあるバーに連れて行ってくれた。お互い金がないのでバスで行った。タクシーはもったいなかった。ピクルスは漬物のことだが、この場合は酔い潰れたポッサム、という意味だとニッキーは教えてくれた。

彼女もオーストラリアに移住を求めてやってきているらしい。でも、なんだか影がありとっ突き難いところがあって、会話がうまく運ばない。永住権取得もうまくいっていなかったようだ。せっかく行った二軒目の店で、周りの喧騒とは裏腹に私は息苦しくなって先に帰ることにした。

それから、Bourbon & Beefsteak Barでは彼女を見かけなくなった。そして、私は6月の末にはメルボルンに移動し一カ月の旅に出た。

永住権を求めて、根無し草のように漂っている人が多くいることを知った。私もそのうちの一人に仲間入りした。シドニーからメルボルンに向かうや夜行バスの窓ガラスに黒く映る自分自身を見つめながら、自分は永住権を取るまでは絶対に日本に帰れないと思い始めていた。  

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2010年09月30日

メルボルンの田園調布、トゥーラックに住んでいた頃

ギリシャの大富豪、オナシスが言ったという。
「どんなに小さくて貧弱な所でも、有名な地域に住め。」
どちらかというと富豪に弱い私、メルボルンの田園調布と言われているトゥーラックに住むことにした。ある日、歩いていたら30分間に5台のロールスロイス を見た。人が金持ちなのを自慢しても何も始まらないが。そのトゥーラックのフラットに住んだ。家具付きの一部屋のスタジオタイプで、当時週75ドルだっ た。隣の部屋には、日本人のワーホリの男女4人が住んでいた。ちょっとお邪魔したい気もしたが遠慮した。

ある朝カーテンを開けると、大きな窓ガラスに黄色い卵の線が太く何本も流れている。小さな殻なんかもひっついていて、朝日に当たって綺麗だ、なんて思った わけではないが、一瞬何があったのか飲みこめなかった。投げられて間もなかったら、ちょっときれいに取って、朝食の生卵ぶっかけご飯とかに利用できたのだ が、固まっていた。拭き取るのが大変だった。どうせなら、トマトなんかにしてくれればよかったと思うのだが。夜中に勤めていたレストランの仲間を呼んで騒 いだのが原因だったのだろうか。

それからちょっとして、外出から帰ると今度は郵便ポストに貼り紙がしてあった。ここは住人のポストが集まっている所なので、皆が読んだ可能性が大だった。
「8号室のこの男、次から次へと女を連れ込んでいる酷い奴だ。」
しっかりと英文解釈したら、そう書いてあった。褒められているのではないことは分かった。確かに、火のない所になんとやらではあろう。お付き合いさせていただいていた方もいて、部屋ですき焼きなどをご馳走したこともある。しかし、逆恨みもないもんだとこの世を儚んだ。

そうこうしている内に、今度は泥棒に入られた。小銭と、大切な方からいただいた腕時計をやられた。私服の警官が1人で来て5分ほどいて帰っていった。その 潔さを、実家の東村山に住んでいる警察官の父に報告したいくらいだった。殺人でも犯さないと、まともに扱ってもらえないのだろうか。富豪のいう事なんか聞 いてろくな事はない。

私は、このアパートから毎日歩いて片道30分ある日本食レストランまで通っていた。トラムと呼ばれる路面電車に乗って行くこともあった。ある日、その停留所で待っていたら、車が止まって日本語で乗らないかと言われた。小柄で細面の中年女性だった。

「ワーホリ?大変ね、日本人だと思うとすぐ載せたくなっちゃうの。頑張ってね。」
10分ほどのドライブだったが、不思議と胸が熱くなった。昔、いろいろ苦労して長く住んでいる方だったのだろうか。

あのトゥーラックの一間のフラットに住んでいて、いろいろな方々と遭遇した。泥棒とか、会いたくない方もいたが、いろいろな意味で希望というエネルギーの製造現場でもあった。

あれから25年になるが、幸いに卵による被害はあのときだけだった。もっとも、あれにしてもこちらの落ち度であったわけで、今考えてみると悪いことをしたとは思っているが。

このフラット、今は豪華なサービスアパートメントに生まれ変わっている。
  

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2010年09月28日

まずはシドニーのキングスクロスに投宿

1985年6月16日にシドニー空港に降り立った。迎えに来ている筈のオージーの女性がいなかった。1年前に、原宿、六本木であれだけ面倒をみてあげたの になんて拗ねてみても始まらない。イミグレを出て勇んで出てきて拍子抜け。物事は期待通りに進まないよといわれているような出だしだった。オーストラリア に向かうと決めたとき、オージーとの出会いには積極的に臨んだ。どちらかというと、女性との機会が多かったように記憶している。日本語を勉強している高校 生を引率していた先生と知り合い、原宿のショッピング、六本木での飲み食いなどのお世話をして、その後時々手紙で連絡していた人だった。私は、仕方なく一 人で、日本から予約していたキングスクロスという所の宿に向かった。

「タコ、元気に着いた?チャイナタウンで昼ごはんといっていたけど、駐車場も大変だしまた連絡するね。」別なオージーのカップルで、着いた日にチャイナタウンで昼食の約束していた人に電話を入れたらそういわれた。私は、最初から招かれざる人間のようだった。

シドニー入りして、数日したときにサラリーマン時代の会社の支社に連絡し、東京から出張に来ていた山本先輩と会うことになった。仕事の関係の商社の方も連れてくるとのことだった。キングスクロスの場末のパブで三人で飲むことになった。

「そうですか、永住を目指しているのですか。よくそこまで決心できましたね。」33歳でサラリーマンを下りてオーストラリア永住を、などという人はそんなにいなかった頃のことで、紹介された角紅の新井さんはやや驚いたように言って中ジョッキのビールを飲み終えた。

「こちらにいたら、きっとオージーの金髪と結婚することもありえますね。しかし、将来苦労しないためにも、もしそうなったらその人と一緒に何年かは日本に住んだ方がいいですよ。それができないなら、この国でこの国の人間に成り切るよう頑張るしかないですね。」

「もう一つ言っておきますけど、ビザや仕事がないといっても決して卑屈にならないこと。たとえばの話ですが、電車に乗ったら隅に座らず、堂々と真ん中に座る、そんなことを心がけてやっていってください。きっと、道は拓けますよ。」
山本先輩を介して初めてお会いした新井さんに励ましの言葉を受けた。

お 二人と分かれてから、キングスクロスを歩いて宿まで帰った。いろいろと誘惑の多い街だ。あられもない格好で呼び込みをしている女性もいる。サラリーマン時代、うろついていた新宿歌舞伎町を思い出す。大変なメにもあったことがある。しかし、その日 は気が張っていたので見向きもしない。今さっき新井さんに新鮮なアドバイスをいただき、大事に抱えるようにして宿に戻った。

33歳になっ たばかりの私だった。日本にいてサラリーマンを続けていたら、そこそこの生活をしながらこじんまりとした幸せの中で、子どもとか犬とか嫁さんとかを相手にして、やっていけただろう。何が私をそうさせなかったかは一言ではいえないが、このオーストラリアで全く新しい生活に挑戦してみたかったことは確かだ。人生を変えてみたかった、と言ったら格好良すぎて言いすぎだろう。

翌日山本先輩に電話を入れてお礼を伝えた。
「タコちゃんね、新井さん日本の奥さんとうまくいってないようでね、ちょっと落ち込んでいたんだよ。でも、言ってたよ、タコちゃんのことが羨ましいって。もう少し若くて独身だったら自分も同じようにやってみたい、なんてね。」
新井さんも苦労をしながら、私にアドバイスしてくれたのだった。

食べずに飲んでいて、宿に帰ったら何だかお腹が空いた。スプリングの利きすぎた古いベットから弾みをつけて起き上がり外に出た。テイクアウェーの店でトンカツに似たようなものを買ってきた。揚げてあるから中味は分からない。ワラジのように大きく、ボール紙のような厚さのカツだった。別に、「かつ」とか洒落て みたわけではないが、もらったトマトケチャップをかけて一気に喰った。

何だか、その夜は興奮してよく寝られなかった。新井さんに言われたように堂々とやっていこう、という言葉が何度も頭を回る。外は、風俗の街キングスクロスが妖しくスタートしようとしていた。
  

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2010年09月27日

トップレスの女性に道を訊いたダーウィン

トップレスの女性が目に入ってきた。仰向けになり両肘をついてやや体を起こした姿勢で、砂浜を歩いている私の方を見ている。行きはタクシーで行ったダーウィンの戦争記念館から帰りの足を失い、仕方なく海沿いを歩いて帰ることにした。本当にこのまま歩いていて戻れるのか不安になり、誰かに道を訊こうとしていた。これが噂のトップレスか、などと喜んでいる場合でもなく、他に全く誰もいないので砂に足を取られながらも近寄って話かけた。
女性は立ち上がり、両手を腰に置き堂々としかも弾んだ甲高い声を発し笑顔でこたえてくれた。はち切れそうな、とはこういう時のためにあった言葉かとさえ思える肢体。それにしても、何と潔く物怖じしない大らかな態度なのだろう。そのまま一緒に昼ご飯でも食べたい衝動に駆られた。移住を決める要因は、その国の美しい国土、自然などにもあるだろうが、やはりそこに住む人の人間性、国民性が大きい。広大な大地オーストラリアで、それこそ正にこの垂乳根(たらちね)との出会い、その後大いに参考にさせていただいた。
実はこのダーウィンでもう一つ忘れられないことがあった。訪れたこの戦争記念館で第二次世界大戦の歴史を知ったことだ。日本の空軍は、ここを何と60回以上も爆撃して、243人の死者と300人を超える負傷者を出していたという事実を始めて知ったのだ。
当時、オーストラリア人は、日本軍が上陸して攻めてくると本当に信じて心配していたという。同じ時期のアメリカのことは、アイゼンハワー将軍(後の大統領)の不倫なんていう話まで知っているのに、オーストラリアのことを何も知らなかったのだとわかり愕然とした。この国の人を知るとともに、日豪関係などをもっと知りたいと強く思った。そういう意味では、このダーウィンの旅は大いに刺激となった。
1985年、私は9年弱勤めたサラリーマン生活を自ら下り、日本語教師になる勉強をしてから、東京は東村山の家を出て、単身でオーストラリアまでやって来た。「自分の人生の行き先は、会社が決めるのではなく自分で決めよう。自分に自分で辞令を出そう」と会社を辞めたときは粋がって言ってはいが、実のところそれは日本という国に、そのシステムにフィットしきれない落ちこぼれの遠吠えのようなものであったような気がする。
しかし、根っからの楽天家、悪くいえばリスクの見えないノー天気な性格で、人生には次があるというポジティブな気持ちでやっていた。こういう気持ちがなければ、ビザもなく仕事もないままオーストラリアに飛び込むなんてことはできなかっただろう。
自分の好きなことを、そして自分を活かせることを、移住者に寛容な国オーストラリアでやってみたくなり、人生のやり直しの旅に出た。大いに遅れてきた青年33歳、私にとっての初めての先の見えない冒険だった。
メルボルンに住み始めて25年、最初は日本語教師の職につき、そしてこの13年は「タコ社長」をやらせてもらっている。何の因果か、日本と歴史的に因縁の深いオランダを祖国とする両親から生まれた、いわゆる「オランダ系の連れ合い」と知り合い入魂になった。こんな地球の南の果てで、あと2年もすれば還暦を迎える日本のオヤジが、ハーハー言いながらも生きている姿を少し日記でお伝えしたい。この国に興味を持っておられる方々、移住や留学、国際結婚を考えておられる方々、退職後の一時期、中長期に住んでみたいと思っておられるような方々にぜひ読んでみてもらいたいと願っている。そして、いつもポジティブで楽天的にやっていけたら、仕事を何度も変えなくてはならなくても、住む所が変わっても、添い寝の相手がこれまた何度も変わったとしても、腹の底から大声で笑ってやっていけるというメッセージをお伝えできたらと思う。
日本に帰るたびに思うことがある。親の仇にでも出会ったような恐い顔をして歩いている人が多いということだ。「への字立憲君主国」とでも名づけたいくらいだ。怒ったような顔をしていないと、まともに仕事をしていると見られないからだろうか。へらへら笑っていてでもしたら、切り捨て御免で切られ兼ねないような社会なのだろうか。ご両親の移住で、子供のときにこちらに来た娘さんが、日本で3ヵ月生活して帰ってきてもういいですと言った。日本では、知らない人とでもニッコリと挨拶したり話しこんだりすることがなく、長く住めないということだった。への字の成人、無表情の若者たちが多くなっているのだろうか。
オランダ系の連れ合いの父親は、笑顔の絶えない人だ。そのDNAを受け継ぐ連れ合いもしっかりとそれを踏襲していて私に「笑顔がない!」、といい続けている。世界経済も大変なことになっていて、日常生活では笑っていられないことが多いのが事実だ。そんな中、私にとって日記を書くことが救いになっている。書きながら大笑いすることがある。そして、ブログなどを読んで下っている方々に、それをお伝えできることが喜びになっている。連れ合いの父親は、メールや電話の最後に必ずこういう。「Keep smiling Tako !」

これはそのまま私から皆様へのメッセージでもある。

  

Posted by タコ社長 at 19:10Comments(2)

2010年09月27日

国際紛争を回避していくには

「37.4度です。」
眠りについてのTVの番組で、イギリス人の金髪女性がそう言った。平熱のことだそうだ。

私の場合は36度弱なので、37.4度もあった日にゃもうちょっと横にならないとならない体温だ。可なりの差がある。

4-5日、家のヒーターが壊れて寒い思いをした。週末は修理の人も高くなるので呼ばない、とオランダ系の連れ合いが言う。健康よりも経済観念が先行するのがオランダ系。

ということで、寒さで体調を崩した。最近は、朝のウォーキング中に転倒したりいろいろあり、厄年がまた来たのかみたいで気を付けないとならない。平熱が1度以上も違う白人の方々と一緒に生活していると、何とも草食系中高年、弱みが出てくる。

先の大戦は、こういう国の方々としていたのだと思うと、基礎体力からして戦にならないものがあったようだ。国際平和は堅持していかないとならない。戦争好きな大国の挑発に乗らないようにも気をつけたい。

我家庭においていうならば、生姜の力で基礎体温を少しでもアップして、連れ合いに頼もしいと思ってもらうことが戦争回避への近回りのような気がする。
  

Posted by タコ社長 at 12:45Comments(2)