2010年09月30日

メルボルンの田園調布、トゥーラックに住んでいた頃

ギリシャの大富豪、オナシスが言ったという。
「どんなに小さくて貧弱な所でも、有名な地域に住め。」
どちらかというと富豪に弱い私、メルボルンの田園調布と言われているトゥーラックに住むことにした。ある日、歩いていたら30分間に5台のロールスロイス を見た。人が金持ちなのを自慢しても何も始まらないが。そのトゥーラックのフラットに住んだ。家具付きの一部屋のスタジオタイプで、当時週75ドルだっ た。隣の部屋には、日本人のワーホリの男女4人が住んでいた。ちょっとお邪魔したい気もしたが遠慮した。

ある朝カーテンを開けると、大きな窓ガラスに黄色い卵の線が太く何本も流れている。小さな殻なんかもひっついていて、朝日に当たって綺麗だ、なんて思った わけではないが、一瞬何があったのか飲みこめなかった。投げられて間もなかったら、ちょっときれいに取って、朝食の生卵ぶっかけご飯とかに利用できたのだ が、固まっていた。拭き取るのが大変だった。どうせなら、トマトなんかにしてくれればよかったと思うのだが。夜中に勤めていたレストランの仲間を呼んで騒 いだのが原因だったのだろうか。

それからちょっとして、外出から帰ると今度は郵便ポストに貼り紙がしてあった。ここは住人のポストが集まっている所なので、皆が読んだ可能性が大だった。
「8号室のこの男、次から次へと女を連れ込んでいる酷い奴だ。」
しっかりと英文解釈したら、そう書いてあった。褒められているのではないことは分かった。確かに、火のない所になんとやらではあろう。お付き合いさせていただいていた方もいて、部屋ですき焼きなどをご馳走したこともある。しかし、逆恨みもないもんだとこの世を儚んだ。

そうこうしている内に、今度は泥棒に入られた。小銭と、大切な方からいただいた腕時計をやられた。私服の警官が1人で来て5分ほどいて帰っていった。その 潔さを、実家の東村山に住んでいる警察官の父に報告したいくらいだった。殺人でも犯さないと、まともに扱ってもらえないのだろうか。富豪のいう事なんか聞 いてろくな事はない。

私は、このアパートから毎日歩いて片道30分ある日本食レストランまで通っていた。トラムと呼ばれる路面電車に乗って行くこともあった。ある日、その停留所で待っていたら、車が止まって日本語で乗らないかと言われた。小柄で細面の中年女性だった。

「ワーホリ?大変ね、日本人だと思うとすぐ載せたくなっちゃうの。頑張ってね。」
10分ほどのドライブだったが、不思議と胸が熱くなった。昔、いろいろ苦労して長く住んでいる方だったのだろうか。

あのトゥーラックの一間のフラットに住んでいて、いろいろな方々と遭遇した。泥棒とか、会いたくない方もいたが、いろいろな意味で希望というエネルギーの製造現場でもあった。

あれから25年になるが、幸いに卵による被害はあのときだけだった。もっとも、あれにしてもこちらの落ち度であったわけで、今考えてみると悪いことをしたとは思っているが。

このフラット、今は豪華なサービスアパートメントに生まれ変わっている。
  

Posted by タコ社長 at 09:43Comments(2)

2010年09月28日

まずはシドニーのキングスクロスに投宿

1985年6月16日にシドニー空港に降り立った。迎えに来ている筈のオージーの女性がいなかった。1年前に、原宿、六本木であれだけ面倒をみてあげたの になんて拗ねてみても始まらない。イミグレを出て勇んで出てきて拍子抜け。物事は期待通りに進まないよといわれているような出だしだった。オーストラリア に向かうと決めたとき、オージーとの出会いには積極的に臨んだ。どちらかというと、女性との機会が多かったように記憶している。日本語を勉強している高校 生を引率していた先生と知り合い、原宿のショッピング、六本木での飲み食いなどのお世話をして、その後時々手紙で連絡していた人だった。私は、仕方なく一 人で、日本から予約していたキングスクロスという所の宿に向かった。

「タコ、元気に着いた?チャイナタウンで昼ごはんといっていたけど、駐車場も大変だしまた連絡するね。」別なオージーのカップルで、着いた日にチャイナタウンで昼食の約束していた人に電話を入れたらそういわれた。私は、最初から招かれざる人間のようだった。

シドニー入りして、数日したときにサラリーマン時代の会社の支社に連絡し、東京から出張に来ていた山本先輩と会うことになった。仕事の関係の商社の方も連れてくるとのことだった。キングスクロスの場末のパブで三人で飲むことになった。

「そうですか、永住を目指しているのですか。よくそこまで決心できましたね。」33歳でサラリーマンを下りてオーストラリア永住を、などという人はそんなにいなかった頃のことで、紹介された角紅の新井さんはやや驚いたように言って中ジョッキのビールを飲み終えた。

「こちらにいたら、きっとオージーの金髪と結婚することもありえますね。しかし、将来苦労しないためにも、もしそうなったらその人と一緒に何年かは日本に住んだ方がいいですよ。それができないなら、この国でこの国の人間に成り切るよう頑張るしかないですね。」

「もう一つ言っておきますけど、ビザや仕事がないといっても決して卑屈にならないこと。たとえばの話ですが、電車に乗ったら隅に座らず、堂々と真ん中に座る、そんなことを心がけてやっていってください。きっと、道は拓けますよ。」
山本先輩を介して初めてお会いした新井さんに励ましの言葉を受けた。

お 二人と分かれてから、キングスクロスを歩いて宿まで帰った。いろいろと誘惑の多い街だ。あられもない格好で呼び込みをしている女性もいる。サラリーマン時代、うろついていた新宿歌舞伎町を思い出す。大変なメにもあったことがある。しかし、その日 は気が張っていたので見向きもしない。今さっき新井さんに新鮮なアドバイスをいただき、大事に抱えるようにして宿に戻った。

33歳になっ たばかりの私だった。日本にいてサラリーマンを続けていたら、そこそこの生活をしながらこじんまりとした幸せの中で、子どもとか犬とか嫁さんとかを相手にして、やっていけただろう。何が私をそうさせなかったかは一言ではいえないが、このオーストラリアで全く新しい生活に挑戦してみたかったことは確かだ。人生を変えてみたかった、と言ったら格好良すぎて言いすぎだろう。

翌日山本先輩に電話を入れてお礼を伝えた。
「タコちゃんね、新井さん日本の奥さんとうまくいってないようでね、ちょっと落ち込んでいたんだよ。でも、言ってたよ、タコちゃんのことが羨ましいって。もう少し若くて独身だったら自分も同じようにやってみたい、なんてね。」
新井さんも苦労をしながら、私にアドバイスしてくれたのだった。

食べずに飲んでいて、宿に帰ったら何だかお腹が空いた。スプリングの利きすぎた古いベットから弾みをつけて起き上がり外に出た。テイクアウェーの店でトンカツに似たようなものを買ってきた。揚げてあるから中味は分からない。ワラジのように大きく、ボール紙のような厚さのカツだった。別に、「かつ」とか洒落て みたわけではないが、もらったトマトケチャップをかけて一気に喰った。

何だか、その夜は興奮してよく寝られなかった。新井さんに言われたように堂々とやっていこう、という言葉が何度も頭を回る。外は、風俗の街キングスクロスが妖しくスタートしようとしていた。
  

Posted by タコ社長 at 12:55Comments(4)

2010年09月27日

トップレスの女性に道を訊いたダーウィン

トップレスの女性が目に入ってきた。仰向けになり両肘をついてやや体を起こした姿勢で、砂浜を歩いている私の方を見ている。行きはタクシーで行ったダーウィンの戦争記念館から帰りの足を失い、仕方なく海沿いを歩いて帰ることにした。本当にこのまま歩いていて戻れるのか不安になり、誰かに道を訊こうとしていた。これが噂のトップレスか、などと喜んでいる場合でもなく、他に全く誰もいないので砂に足を取られながらも近寄って話かけた。
女性は立ち上がり、両手を腰に置き堂々としかも弾んだ甲高い声を発し笑顔でこたえてくれた。はち切れそうな、とはこういう時のためにあった言葉かとさえ思える肢体。それにしても、何と潔く物怖じしない大らかな態度なのだろう。そのまま一緒に昼ご飯でも食べたい衝動に駆られた。移住を決める要因は、その国の美しい国土、自然などにもあるだろうが、やはりそこに住む人の人間性、国民性が大きい。広大な大地オーストラリアで、それこそ正にこの垂乳根(たらちね)との出会い、その後大いに参考にさせていただいた。
実はこのダーウィンでもう一つ忘れられないことがあった。訪れたこの戦争記念館で第二次世界大戦の歴史を知ったことだ。日本の空軍は、ここを何と60回以上も爆撃して、243人の死者と300人を超える負傷者を出していたという事実を始めて知ったのだ。
当時、オーストラリア人は、日本軍が上陸して攻めてくると本当に信じて心配していたという。同じ時期のアメリカのことは、アイゼンハワー将軍(後の大統領)の不倫なんていう話まで知っているのに、オーストラリアのことを何も知らなかったのだとわかり愕然とした。この国の人を知るとともに、日豪関係などをもっと知りたいと強く思った。そういう意味では、このダーウィンの旅は大いに刺激となった。
1985年、私は9年弱勤めたサラリーマン生活を自ら下り、日本語教師になる勉強をしてから、東京は東村山の家を出て、単身でオーストラリアまでやって来た。「自分の人生の行き先は、会社が決めるのではなく自分で決めよう。自分に自分で辞令を出そう」と会社を辞めたときは粋がって言ってはいが、実のところそれは日本という国に、そのシステムにフィットしきれない落ちこぼれの遠吠えのようなものであったような気がする。
しかし、根っからの楽天家、悪くいえばリスクの見えないノー天気な性格で、人生には次があるというポジティブな気持ちでやっていた。こういう気持ちがなければ、ビザもなく仕事もないままオーストラリアに飛び込むなんてことはできなかっただろう。
自分の好きなことを、そして自分を活かせることを、移住者に寛容な国オーストラリアでやってみたくなり、人生のやり直しの旅に出た。大いに遅れてきた青年33歳、私にとっての初めての先の見えない冒険だった。
メルボルンに住み始めて25年、最初は日本語教師の職につき、そしてこの13年は「タコ社長」をやらせてもらっている。何の因果か、日本と歴史的に因縁の深いオランダを祖国とする両親から生まれた、いわゆる「オランダ系の連れ合い」と知り合い入魂になった。こんな地球の南の果てで、あと2年もすれば還暦を迎える日本のオヤジが、ハーハー言いながらも生きている姿を少し日記でお伝えしたい。この国に興味を持っておられる方々、移住や留学、国際結婚を考えておられる方々、退職後の一時期、中長期に住んでみたいと思っておられるような方々にぜひ読んでみてもらいたいと願っている。そして、いつもポジティブで楽天的にやっていけたら、仕事を何度も変えなくてはならなくても、住む所が変わっても、添い寝の相手がこれまた何度も変わったとしても、腹の底から大声で笑ってやっていけるというメッセージをお伝えできたらと思う。
日本に帰るたびに思うことがある。親の仇にでも出会ったような恐い顔をして歩いている人が多いということだ。「への字立憲君主国」とでも名づけたいくらいだ。怒ったような顔をしていないと、まともに仕事をしていると見られないからだろうか。へらへら笑っていてでもしたら、切り捨て御免で切られ兼ねないような社会なのだろうか。ご両親の移住で、子供のときにこちらに来た娘さんが、日本で3ヵ月生活して帰ってきてもういいですと言った。日本では、知らない人とでもニッコリと挨拶したり話しこんだりすることがなく、長く住めないということだった。への字の成人、無表情の若者たちが多くなっているのだろうか。
オランダ系の連れ合いの父親は、笑顔の絶えない人だ。そのDNAを受け継ぐ連れ合いもしっかりとそれを踏襲していて私に「笑顔がない!」、といい続けている。世界経済も大変なことになっていて、日常生活では笑っていられないことが多いのが事実だ。そんな中、私にとって日記を書くことが救いになっている。書きながら大笑いすることがある。そして、ブログなどを読んで下っている方々に、それをお伝えできることが喜びになっている。連れ合いの父親は、メールや電話の最後に必ずこういう。「Keep smiling Tako !」

これはそのまま私から皆様へのメッセージでもある。

  

Posted by タコ社長 at 19:10Comments(2)

2010年09月27日

国際紛争を回避していくには

「37.4度です。」
眠りについてのTVの番組で、イギリス人の金髪女性がそう言った。平熱のことだそうだ。

私の場合は36度弱なので、37.4度もあった日にゃもうちょっと横にならないとならない体温だ。可なりの差がある。

4-5日、家のヒーターが壊れて寒い思いをした。週末は修理の人も高くなるので呼ばない、とオランダ系の連れ合いが言う。健康よりも経済観念が先行するのがオランダ系。

ということで、寒さで体調を崩した。最近は、朝のウォーキング中に転倒したりいろいろあり、厄年がまた来たのかみたいで気を付けないとならない。平熱が1度以上も違う白人の方々と一緒に生活していると、何とも草食系中高年、弱みが出てくる。

先の大戦は、こういう国の方々としていたのだと思うと、基礎体力からして戦にならないものがあったようだ。国際平和は堅持していかないとならない。戦争好きな大国の挑発に乗らないようにも気をつけたい。

我家庭においていうならば、生姜の力で基礎体温を少しでもアップして、連れ合いに頼もしいと思ってもらうことが戦争回避への近回りのような気がする。
  

Posted by タコ社長 at 12:45Comments(2)