2010年10月19日

永住権を求めて



明治時代にアメリカに渡った野口英世は、15年間日本に帰らなかったという。その15年目に帰って母親と水入らずの日々を過ごし、アメリカに戻る。それから、50歳にしてアフリカに渡りそこで客死。最後に日本で正月を過ごしたのは10年前、とかいって同情を誘っているようなタコ社長とは覚悟の格が違う。「永住」という重みがちっともわかっていない私だ。そんな私だが、「なにがなんでも永住権」と言って33歳でオーストラリア入りした。梅毒の研究はしなかったが、梅毒の心配はした。そこだけが野口とのわずかな接点。

「永住したいんです」。短期ビザで滞在していたある日、こちらの大学で日本語を教えているSさんを紹介され、彼の大学を訪問したことがあった。「永住ね。一番手っ取り早いのは日本食レストランのシェフになることかな」。当時私は、「真面目です」を額縁に入れて歩いて、三遍まわってワンと言っているような人間だった。そんな真剣な私の問いに、Sさんは肩透しを食らわせた。「なんだこの人は、くだらん人だ」と思ってしまった。日本のサラリーマンを辞めてそんなに日も経っていない私は、変なプライドをぶら下げていたのだろうか。今思うと私の方がずっとくだらない人間だったような気がする。

「日本語を教えることは、本当に日豪関係に役立っていますね」。日本語教師を目指していた私は、絵に描いたような質問をした。「私は、そんなつもりでは全然やってないんです。日豪間の架け橋になろうなんて気持ちはさらさらありません。ただ好きだからやっているんです」。この人、言うことがいちいち腹立たしい。タコ社長、物事を真直ぐにしか見られない不器用者。しかし、反発しながらもこのSさんの言葉が、そのあと何度となく蘇ってきて今に至っている。

Sさんのアドバイス通り、こちらの日本食レストランで働くことになった。来る日も来る日も皿を洗っていた手の皮がべロッと剥けた。くだらんプライドなど、両親の顔が浮かんで目が滲むこともあった。手紙を書くと早速、日本の母がニベヤのクリームを山ほど送ってよこした。永住権は絶対に取れる、と裏打ちもなく唯阿呆のように自分に唱えながら毎日皿を洗い続けていた。でも、不思議と明るくやっていた。明日のリスクが見えない性格は、いいこともある。そして、すったもんだのあげくやっと永住権が取得できた。

という訳で、今でも皿洗いに関しては誰にも負けない自信がある。


  

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2010年10月13日

一糸まとわぬマリリン・モンローを、、、、、






海外営業部に所属していたサラリーマン時代、担当はインドとパプアニューギニアだった。どうして、アメリカと、美人の多いことで知られているポーランドとかじゃいのだろう、と文句の一つもいいたいところだったが、仕事も覚束ない新米社員の頃で口答えできない。もっとも自分の行きたい所には行かせないのが会社。因みに、元相撲取りのような体格で決められた、と噂さもされていた。

仕事はそこそこ面白かったのだが、あるときインドの大プロジェクトで直属の部長と課長の板ばさみになり、課長が死ぬの生きるのといっているような状態のなか、仕事に冷めていってしまった。「脱サラして、オーストラリアで日本語教師になろう。」と自分で自分に辞表を出し、ついでに辞令も出した。これからは自分の人生の進路は自分で決めようと格好よく言ったりしていたが、実のところは会社の組織から脱落した負け犬の遠吠えだったのだろう。やり直し人生をオーストラリアに賭けた。

まず、体の悪い所を直そうと考えた。命には別状ないがあっても邪魔なものは、前も後ろもきれいにさようならした。脱サラして規則的な生活をし出したら、体重が10キロ減った。飲んでから最後にラーメン、餃子なんかが定番だったサラリーマン時代。それが終わっただけで痩せた。これには驚いた。

それにしても、ビザがないと観光には行けても住めない。日本語教師だけでは弱い。何か、日本人ならではの技術を、俄か作りで習得しようとした。「そうだ、指圧をやってみよう。」熱しやすいことは天下一品、特に異性に関しては、池の鯉にでも恋してしまう性格。決めたら即実行。

子どものとき、シャネルの5番だけのマリリン・モンローを隈なく指圧しまくったという伝説の指圧師がいた。彼女は、私の金髪憧れの元祖原点の方だ。因みに、秋田生まれの母とモンローは同じ年、彼女が生きていれば今年84歳か。母の場合は、シャネルとかじゃなく桃の花とかもっと身近なものだったような気がするが。この伝説の指圧師、浪越徳治郎さんが立川の朝日カルチャーセンターで家庭指圧教室をやられていたので、失業保険を取りに行くついでに資料をもらい即断で入会した。

こうして、いろいろ準備して1985年6月にオーストラリア入りした。贅肉も無くなったが金も無く、あるのはどデカイ夢だけの33歳。結局、永住権は指圧でも日本語でも取れず、すったもんだのあげく、日本食レストランのマネージャーとして奇跡的に取得できた。

ところで、移住して間もない頃、指圧をやろうかと新聞に広告を出したことがある。「ジャパニーズ指圧」として出した。何と、その日だけで93件の問い合わせがあった。しかも、全員男。その日の終わりには電話を取るのも嫌になった。同じ金髪でも、プロレスラーのような白人男への指圧は大変だ。どうやら、日本人女性がやるちょっといかがわしいマッサージを期待して多くの人が連絡してきたようだった。そんな期待をされた方々には申し訳なかったが、結局指圧は諦めた。師匠の浪越さんにあやかることができずに、自分にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
  

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2010年10月05日

金髪ニッキーにシドニーのバーで出会った頃







シドニーの新宿歌舞伎町、キングスクロスが私のオーストラリアでの生活の出発点だった。日本から、わけも分からず予約をいれた簡易ホテルに1ヶ月ほど投宿した。1985年の6月のことだった。

ヨーロッパのカフェ文化が少しずつ浸透してきていた。宿から歩いて1分くらいのところにBourbon & Beefsteak Barというステーキレストランとバーが一緒になったよう店があった。24時間営業だ。バーの奥にはピアノの弾き語りなんかがあって、割と落ち着いたムー ドを出していた。週末にはすごい賑わいだったがウィークデーはゆったりと飲めた。好奇心も手伝って、毎晩一杯ひっかけに行っていた。六本木交差点の近くにあったバーニーインに似た雰囲気があった。因みに、この六本木の店には時々行っていたが、白人男性と友達になりたい日本人女性から、しかとされることが多々あってマゾっけが磨かれた。



黒人のピアニストがビリー・ジョーの「ピアノマン」を奏でている。
「どっからきたの?」金髪を素直に伸ばした、年のころでいうと30代後半の地味な女性が話しかけてきた。こういうことは、日本ではまったくなかったことだ。

「東京から。」私は、日本とは言わずいつも「東京」ということにしていた。秋田、とかだったらそうもいかないが、「東京」を知らない外人はいないだろうと思っていた。

「私はカルフォルニアから来ているの。ニッキー、よろしくね。」
そうか、彼女も外国人だったのだ。境遇は同じだ。人恋しかったのだろう。

このバーは、おつまみが無料で出た。貧乏旅行で家計簿をつけ始めていたのでありがたい無料サービス。しかし、大体は鶏の手羽で、味は濃くそしていつもといっていいほど肉がついていない貧弱なものだった。レストランでは出せないものが回ってきているようだった。

「この手羽、食べられないわね。」
ニッキーと名乗った彼女はエクボを作って苦笑いした。
「僕は、タコ。一ヶ月、このキングスクロスに住むことにしてるんだ。」
「変わった名前ね。」
中学3年程度の簡単な英会話で十分通じる。ハイボールをチビチビとなめながら、音楽に聴き入った。

ほんのちょっと前までは、東京は東村山にいて、押入れから冬物を出して渡豪の準備をしていた。今は、観光ビザで将来のあてもなく、シドニーのバーでアメリカ人の女性と話している。不思議な気持ちが渇いたピアノの音にくるまれて生温かく漂う。この開放感がたまらなかった。先の見えない将来への不安がなかったといえば嘘になる。それと裏腹に、これからの人生なんでも可能なんだ、みたいな変な自信もあった。不安と自信が、ハイボールの中でぐるぐる回って酔いが早い。

ニッキーとは、このバーでそれから2,3回出会った。いつも、同じ席に座って、時々ピアニストの黒人にニコッとしたりする他は、ほとんど動かない。金髪の派手な輝きだけが浮いている。

一度だけ、ニッキーとハシゴをしたことがあった。モスマンという所にあった「ピクルドポッサム」という、やはり弾き語りのあるバーに連れて行ってくれた。お互い金がないのでバスで行った。タクシーはもったいなかった。ピクルスは漬物のことだが、この場合は酔い潰れたポッサム、という意味だとニッキーは教えてくれた。

彼女もオーストラリアに移住を求めてやってきているらしい。でも、なんだか影がありとっ突き難いところがあって、会話がうまく運ばない。永住権取得もうまくいっていなかったようだ。せっかく行った二軒目の店で、周りの喧騒とは裏腹に私は息苦しくなって先に帰ることにした。

それから、Bourbon & Beefsteak Barでは彼女を見かけなくなった。そして、私は6月の末にはメルボルンに移動し一カ月の旅に出た。

永住権を求めて、根無し草のように漂っている人が多くいることを知った。私もそのうちの一人に仲間入りした。シドニーからメルボルンに向かうや夜行バスの窓ガラスに黒く映る自分自身を見つめながら、自分は永住権を取るまでは絶対に日本に帰れないと思い始めていた。  

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